4月30日(金)│『毛皮を着たヴィーナス』と『いじめるヤバイ奴』の話

昨日はブログを書いた後も眠れず,結局朝まで起きて読書をしていた。読んでいたのはザッヘル・マゾッホの『毛皮を着たヴィーナス』(種村季弘訳)という作品である。このマゾッホという小説家は(名前から分かる通り)マゾヒズムの語源となった人物で,その性的倒錯を描いた代表作がこの『毛皮を着たヴィーナス』なのである。

ものすごく簡単にあらすじを述べると,主人公のセヴェリーンという青年が保養地でワンダという美しい女性に出会い,彼女に虐げられることに性的な快感を覚えるようになっていく,という物語である。セヴェリーンはワンダの美貌をヴィーナスに重ねており,自分に「褒美」を与える時には毛皮を身に着けてくれ,と彼女に頼む(これはティツィアーノの絵画《鏡を見るヴィーナス》に由来する行為であることが作品中で述べられている)。

さて,感想などは後に回すとして,まずはなぜ自分が(ものすごく有名というわけではない)この本を読むに至ったのか,その経緯を記すことにする。このことを説明するためには,現在マガポケで連載されている漫画『いじめるヤバイ奴』(中村なん作)の話から始めなければならない。

こちらについても簡単にあらすじを述べておくと,いじめっ子としてクラスに君臨する主人公・仲島が,クラスメイトである白咲さんを残酷ないじめで苦しめていく。しかし本当は仲島は白咲さんにいじめを強制されており,いじめに失敗したり中途半端ないじめを行ったりすれば,白咲さんによる過酷なお仕置きが待っている。この異常な関係性からどうにかして脱却するために奔走する仲島と,彼を取り巻く個性豊かな登場人物たちを描いた漫画である。気になった方はぜひ読んでみてほしい。

本題に入るが,実はこの『いじめるヤバイ奴』(以降『いじヤバ』)には副題が付いており,その副題とは "Venus puts fur on me.",直訳すれば「ヴィーナスが私に毛皮を着せる」である。ここまで読んでいただいた方ならもうお分かりかと思うが,これは明らかに『毛皮を着たヴィーナス』(原題はドイツ語で,Venus in Pelz)のパロディーなのだ。

上述の通り,『毛皮を着たヴィーナス』は毛皮を身に着けたワンダがセヴェリーンに苦痛を与えるという設定であり,毛皮はいじめ苦痛を与える行為のシンボルとして用いられている。これをパロディーである "Venus puts fur on me." に当てはめると,毛皮を身に着けているのは「私」なのだから,いじめを行う側なのは「私」である。しかし,「私」は自分の意志で毛皮を着たのではなく,ヴィーナスによって(強制的に)着せられているわけだから,「私」はヴィーナスによって(ヴィーナスに対する)いじめを強制させられている,という極めて歪な図式が成り立つことになる。もちろん,「私」が仲島を,「ヴィーナス」が白咲さんを指していることは言うまでもない。またヴィーナスと言えば,有名な《ミロのヴィーナス》のような白い大理石の像を思い浮かべる人も少なくないだろう。実際,『毛皮を着たヴィーナス』の作中にもヴィーナスの石像が重要なモチーフとして登場している。このことと,『いじヤバ』のヒロインである彼女がその名に白という色を冠し,さらには真っ白な髪をしているということは無関係とは言えないだろう。

このように,『いじヤバ』のパロディー元となっている作品を読むことで,『いじヤバ』のことをもっと深く理解したいという思いから,『毛皮を着たヴィーナス』を読むことにしたのである。

それでは,『毛皮を着たヴィーナス』の中に,『いじヤバ』への理解を深めてくれるようなシーンは存在したのだろうか?結論から言うと,ものすごく重要と思われるようなシーン(例えば,これを読むことで『いじヤバ』のキャラクターに関する重大な秘密が明らかになる,というようなシーン)は無かった。そもそも,作者である中村なん先生が本作の中身にまで目を通しているかどうかすらまったくもって不明なのである。しかし,読者であればそれとなく『いじヤバ』を想起してしまうようなセヴェリーンの台詞はひとつ見つかったので,その箇所を引用しておくことにする。

「結婚が平衡の上に、完全な合意の上に築かれるのが不可能なら、逆に対立を通じてこよなく大きな情熱が生まれてくるのです。私たちは、ほとんど敵同士のように向かい合っているそんな対立者です。だからこの愛は、私にあっては半ばは憎悪、半ばは畏怖なのです。こんな関係の中で一人は槌、もう一人は鉄床であるほかはありません。私は鉄床になりたい。私は愛する人を見下したのでは幸福になれない人間です。一人の女性を崇拝する立場に立ちたい。それにはしかし、その女性が私を残酷に扱ってくれるのでなければ駄目なのです」

 さて,肝心の『毛皮を着たヴィーナス』そのものに対する感想だが,正直に言うとものすごく面白いというわけではなかった。セヴェリーンとワンダの同じようなやり取りが事あるごとに繰り返されるのにはやや冗長な印象を受けたし,(これは個人的な問題なのだが)日本語訳も40年ほど前のものなので馴染みのない表現が多く,読み進めるのにかなり時間がかかった。ただ,原作が書かれたのは150年前であり,この作品で表現されているようなマゾッホの性的倒錯をプロトタイプとして様々なマゾヒズムに関連する作品が生み出されてきたわけだから,現代の読者が読んでもそれほどの衝撃を受けないのは当然といえば当然なのかもしれない。とはいえ,全体を通してなんとも言えない不思議な雰囲気を漂わせている作品であり,終盤の展開には思わずページをめくる手が速くなったため,『いじヤバ』読者か否かに関わらず読む価値は十分にある作品だと思う。訳者によるあとがきも興味深かった。

 

 

本当は今日あった他の出来事についても書こうと思ったのだが,上の感想文(?)があまりにも長くなりすぎたので,今日のブログは以上。